マスコミの力
 

 この校長だよりに掲載した「教育いろは唄」(本年2月11日付けのブログ)が大手新聞の今月24日の朝刊に掲載され(http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120424/wlf12042408300004-n1.htm)、多くの方々に知っていただきました。

 私の長い教員生活で培った経験が少しでも(他校の先生方を含めて)若い先生方の教育活動のヒントにでもなればと創ったものですが、今回新聞に掲載していただいたことで、今まで以上に大きな反響をいただきました。それはそれで実に嬉しいことでありますが、それ以上にマスコミの持つ大きな力を実感しました。ちょうど教育いろは唄が掲載された当日に「大阪高校共学部会」という大阪府下の私立共学高校の全校長が集まる定例会があったのですが、そこでも他校の学校長から多くの感想をいただきました。また教育関係以外の多くの方々からも感想をいただきました。中には随分会っていなかった卒業生や同窓生からの連絡もいただきました。自分が感銘を受けた箇所を教えてくれる方もいました。ある唄の意味するところを詳しく教えてほしいという方もいました。副作用(?!)としては、聞かれない限り答えないでいた年齢もしっかり世間にバレてしまいました。またはっきりした顔写真によって、これまで以上、例えば「よいこ部」に出演したりニュース番組でインタビューを受けたりしたとき以上に、ご近所さんには校長だということが露見したような気がします。これからは、品位ある本学の評判を落としてはいけないので、休みの日とはいえ、夏に甚平姿で近隣を歩き回るのも控えたいと思っています(笑)。

 また今までも、そして今回でも、興味深かったのは、教育いろは唄を読んだ方の年齢や職業などによって感銘を受けた箇所が違っていることでした。例えば、医師をしている卒業生は、やはり「罪づくり 医師と教師が 筆頭ぞ いのち預かる 重み知らずば」という唄に衝撃を受けたという感想をくれました。同僚達にも見せてもう一度「医師としての襟を正すよすが」とするとのことで、私の拙いいろは唄が医師の自覚を促すのに役立ったということに喜びを感じました。

 また結構ベテランの教員の多くは「押し黙る 生徒を前に 何とする 僕も分からぬ その場でなけりゃ」という唄を気に入ってくれました。実際、教育現場における生徒の対応はマニュアル通りにはいかないことも多々あって、その生徒の問題や背景やその場の流れ(TPO)によって、「臨機応変の対応」が求められるということを長年の経験で分かっておられるのでしょう。

 あと、つい約束してしまったことに「教育いろは唄の解説書作り」がありますが、これは実際何年先になるかは分かりません。ひょっとしたら約束を破るかも知れませんが、そうなれば私の取材をしてくれた(そして年齢以上に若く見える写真と撮ってくれた)K記者を含めて、解説書作りを約束した皆さん方、本当にスミマセン、お許し下さい。約束を破りそうな気がしてきました・・・。

 あるいはまた、もう少し私も熟成してくれば、「人生いろは唄」などというものを調子に乗って書こうかと思いますが、やっぱりこれも書けなさそうな気がします。熟しても熟成せず、という訳であります・・・。

 

 

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おさな心を打ち捨てて
 

 高校の入学式では「立派な大人になる」ことをテーマに式辞を述べました。以下はその抜粋です。中学の入学式で述べた話については、再度、違う角度から高校生達にも伝えたいと思っていますので、ここでの掲載は控えます。と申しますのも、結構「校長だより」を読んでくれている高校生達も多くいるようで、中学の入学式で述べた話をここで読まれますと、新鮮味がなくなるかと思いますので・・・。

 

<今日よりぞ>(高校入学式式辞抜粋)

生徒の皆さんは今日の入学式をどのように迎えていますか?私は卒業式であっても入学式であっても、また結婚式や成人式であっても、式というものは非常に大切なものであると考えています。それは単なる儀式ではなく、自分自身が古い自分をうちすてて、新たな世界へ向かって新たな一歩を踏み出すためのセレモニーであります。今でいう、自分の人生をリセットするためのものでもあります。

さて古い自分を打ち捨てると言いましたが、吉田松陰と言う人が自分の親戚の子供が15歳(の元服)を迎えたときにおくった言葉があります。それは「今日よりぞ 幼(おさな)心を打ち捨てて 人となりにし道を踏めかし」という言葉です。

吉田松陰というのは皆さんもご存じかもしれませんが、わずか30年足らずの生涯でしたが、明治維新をなし遂げる有能な多くの人材を育てた革命家であり教育者でありました。15歳を迎えたときに、今日から大人であるということの自覚を促すために今の言葉をおくりました。ちょうどここで入学式を迎えんとしている多くの皆さんと同じ年ですが、昔は15歳というのが大人になる年齢とされていました。さてその15歳の子供に吉田松陰は「今日よりぞ 幼心を打ち捨てて 人となりにし道を踏めかし」と云ったわけであります。要するに「もう子供っぽいことは卒業して、この日を境に立派な大人になるようにしなさい」と言ったのです。

話は変わりますが、以前生徒達に作文で「将来何になって、どういうことをしたいか」ということを書かせました。そのとき、それぞれ「科学者になって核融合の研究をしたい」という生徒や「教師になって小学生を教えたい」という生徒や「法律を勉強して弁護士になりたい」とか「医療の世界で難病を治したい」とかいろいろな事が書かれてありました。どれもこれも素晴らしいものでしたが、私が一番感動したのは「立派な大人になって、世界をよりよくしたい」というのがありました。

そして実際、その生徒は今、実に立派な大人として国際関係の仕事に従事しています。

なるほど、一生懸命勉強して、法律家になったり医師になったり科学者になったり教師になったりエンジニアになったりするのは、本当に大切なことであります。しかしそれ以上に、職業がいかなるものであれ、人間として立派でなければならないと考えます。 

さてそれでは「子供と立派な大人の違いはどこに」あるのでしょう。それはいくつかあるでしょうが、ここで私は3つの大きな違いを述べたいと思います。

先ずは使命感というものかと思います。使命感を志しといってもいいかもしれません。子供は感情の世界に生きています。好きか嫌いかで物事を判断し、何かあると不機嫌になったり、機嫌よくなったりします。それはそれで子供としては間違ってはいません。英語ではチャイルドライク、つまり子供らしいという言葉で言います。いい意味で使われます。しかし大人になっても感情のままに生きているなら、それは英語でチャイルディシュ、つまり「子供っぽい」という悪い意味で使われます。そして大人とは自分の感情は感情として持ちながらも、それを乗り越えた次元で生きていける人のことを云うのです。その中でも使命感を持った大人こそ立派な大人といえるのです。

科学者としての使命、教育者としての使命、政治家としての使命、公務員としての使命、弁護士としての使命、守衛さんとしての使命、母親としての使命、さまざまな使命があるかと思います。立場や職業は違っても、少しでもその立場や職業や役割を通じて、自分の目先の利害を超えて自分以外の者の役に立とうとする思いが使命というものです。そういう使命をもった立派な大人に成長してもらいたいと願っています。それには先ずは、今自分に与えられている使命を自覚することであります。今の皆さんの使命は「使命を持って働ける立派な大人となる」ことが皆さんの使命です。しっかり勉強して、自分がこれだと思う仕事、つまり自分が自ら進んで使命を果たせる道に進むことができるようになることが、皆さんの今の使命です。本当に世界にはいろいろな問題があります。貧困や暴力、不当な差別、子供の強制労働などです。また日本にもいろんな問題があります。しかし「世界を少しでもよくする、日本の国を少しでもよくする」といっても、自分自身が確立できていなければ、それも果たせません。たとえ、政治家になって、あるいは医師になって、あるいは教師になって、その社会的使命を果たそうとしても、先ずはその資格や能力を養わなければその使命は果たせません。そのためには、繰り返しになりますが、今日から、しっかりと学びを深め、なりたいと思えるものになれる力を身につけてください。

 

さて2番目に立派な大人にあるものは覚悟というものです。自分の感情に決着をつけて、新たにやり直すことができるのも覚悟があるかないかです。

例えば、身近な例でいいますと、先ほど、私は「入学おめでとう」と言いましたが、実際は第一志望の高校に落ちて、全くめでたいとは感じられない人たちもいると思います。しかし、もし今日から覚悟を決めて、新たな気持ちでやっていこうとするなら、それは大人への第一歩となるわけです。今のうち覚悟ができる生き方を身につけておいて下さい。好きな人ができてプロポーズするにも覚悟がいります。難関大学に向けての勉強をするのにも覚悟がいります。いじめをしている人を止めるのも覚悟がいります。もしAとBの道があって、自分は本当はAの方に進みたかったんだけれど、力及ばずBになってしまったとします。そのとき、もし覚悟を決めてBの方で努力をすれば、その人にとって結果的にBがよかったということになるのです。だからこそ、先ずは今日からしっかりと覚悟を決めて、自分の世界を切り開いて行ってもらいたいと願っています。

 

最後は、「ものの見方」です。その全ては物をどう見るかによって変わってきます。先ほど、明治維新の話をしましたが、明治維新を成功させた立役者の多くは身分も低く経済的にも貧しい下級武士たちでした。その中で、さまざまな苦労を強いられたのですが、彼らは「私が今このように苦労しているは、きっとこれから先、天が私を使ってくれるために、私を鍛えているんだ」と考えて頑張り抜いたからであります。あらゆる苦しみを、彼らは苦労ととらずに天が自らに課した試練と捉えました。違った観点から自分の苦しみや苦労を見ることができ、辛いことを乗り越えていくことができたのです。

さてそれでは、その様々な観点をどうすれば身に付けることができるのでしょうか

 それは読書と出会いです。いろいろな本や新聞を読むことによって、いろんな人と出会うことによって、いろいろなものの見方や感じ方ができるようになってきます。そうか昔の人達はこのように考えたんだ、とか、そうか今の世の中の流れはこのようにも捉えられるんだとか、ああこういう生き方や感じ方もあるんだということができるようになってきます。自分ひとりが体験できることは実に限られています。そこで読書を通じて、あるいは人との出会いを通じて、様々な人の生き方やものの見方や真実というものを知ることができるようになるのです。

 

どうか今言った、使命ということ、覚悟を決めるということ、またものの見方を広げるということが大切だということを心に留めておいてください。また先ほど一人の生徒が述べた「立派な大人になって、世界をよりよくしたい」という思いを皆さんにも共有してもらいたいと願います。繰り返しになるかもしれませんが、世界をよくするためには、先ずは日本の国をよくしなければなりません、しかし日本の国をよりよくし、世界をよりよくするためにも、先ずはあなた方ひとりひとりが立派な大人として自立していかなければなりません。

自ら光を発するだけでなく、周りを明るく照らす人になってもらいたいと願っています。

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自己紹介の方がいい?!
 

「みなさん、おはようございます。いよいよ新学年が始まります。私にとっては新年の始まりである正月よりも、新学年の始まりである4月のほうが、より身が引き締まる思いがします。そして新たな気持ちがフツフツと湧き上がってきます」という私の挨拶で職員会議が始まりました。他の部署の会議や担任会や新人研修は4月2日の月曜日から始めていましたが、勉強合宿なども終わって全員が揃う職員会議が持たれたのが4月6日でした。

また150名近くが集まる合同職員会議では、新人教員のために私の方から役職者の紹介をしようとしました。「しようとしました」というのは、実際はその場になって、ひとりの役職教員のファーストネームがアヤフヤだと気付き、急遽、自己紹介という形でさせてもらいました。教頭、各部長、各主任・・・。みなさん、さすがに一点の誤りもなく「自分の部署と氏名」を言っておられました(笑)。その時、やはり自分の声で自分のことを語るのが一番いいと感じました。それはその方が間違いない(当たり前です)というより、まして校長の仕事としての「役職者紹介」が面倒だというのではさらさらなく、やはり声には、顔つきと同様に、その人の持つサムシングが宿るからであり、紹介する人と紹介される人との距離が少しでも近づくであろうという理由です。来年度の合同職員会議では部署と氏名ともうひとつ、使命も言ってもらおうかと考えています。もう一度云いますが(これを読んでいる教職員もいますので)、それは「校長の仕事としての『役職者紹介』が面倒だというのではさらさらなく」です・・・。

 話は「面倒」という言葉によって急転しますが、私はいつも「教育は手のかかる作業だ」と考えています。例えば、生徒の学力を伸ばすには、「こういったプリントも役に立つかなあ」と思えばプリントも刷らなければならないし、「今日新聞で読んだ記事は生徒にも是非読ませたいなあ」と思えば、それをクラス人数分、あるいは学年分を印刷しなければなりません。これも自分の担任クラスだけに読ませれば、大したことではないのですが、もしそれを学年全体に読ませたいとしたら、学年主任の許可もいるだろうし、印刷も手間がかかります。ということから教育はやろうと思えば思うほど、これでいいという限界がないほど手間がかかるものかもしれません。反対に「手を抜こう」とすれば、これもある程度できないわけではありません。必要最小限で担当教科を教え、必要最小限の担任業務を行い、(作りやすくて採点しやすい)テストを作り、他の必要業務を他の教員や役職者から批判されない程度に必要最小限で黙々とこなしていれば何とか「やっていける」からです。但し本校には今そんな教員は居ませんし、今後も居てもらっては困ると考えています。「生徒とのかかわりが面倒だ」と思ったりする段階で、既にその人の「教師としての老化」が始まっているでしょうし、今後そういう方が現れれば是非転職を勧めたいと考えています。もしいれば、自分の意義ある人生のためにも、そして何よりも生徒達のためにも転職なされ、もっと自分が前向きに積極的にかかわれる道を見つけてもらいたいと願ってしまいます(2012年度2月12日「校長だより」いろは唄<や>参照)。

そうかと言って、この3月に大阪に来た大学時代の私の友人のように「燃え尽き症候群」で欝となり、定年前に退職するようなことになってもいけません(この話は別の機会にでもしたいと思いますが、彼はその県下で「困難校を立て直す生活指導部の熱血教員」として名を馳せていました。が、余りにも熱く、余りにも意欲的で、「生徒の問題と家庭内の問題」という土俵に両足をどっぷりと入れすぎたこと、また最後に行った学校の事なかれ主義(友人曰く)の校長との衝突も重なり、入院するほどの欝病を患いました。3年間療養して何とか回復を遂げ、何年ぶりかで私に会った彼の一声は「お前、よく校長なんかやっているな」という非難でした・・・。よほど校長との葛藤で酷い目にあったようです)。

 さて話を戻し、その本校役職者の自己紹介ですが、早速、4月7日の高校入学式と中学入学式でも、同じ方法で新入生の前で役職者の教職員には自己紹介をしてもらいました(やはり前年度までは「校長からの紹介)。高校の入学式での効果についてはひとりの反対意見しか聞いていませんが、中学の入学式では非常に評判が良かったようです。とに角、私の方から壇上に並んだ仰々しい役職者の方々に「中学1年生を対象にしていることを念頭において自己紹介をして下さい」と云ったためか、鬼の(本当は天使のような、但し剣をもったミカエル天使のような)R生活指導部長まで自分の役割を優しく語って、会場を和ませてくれました。少なくとも不安と緊張の中にある小学校を上がったばかりのピカピカの中学1年生にはよかったと思います。

 閑話休題

合同職員会議では、私の方からは本校の教育目標について聖書の言葉を引用して「健全な社会を作る健全な青少年の育成」にあること、またそれぞれの生徒の可能性(聖書の言葉では神から与えられた各生徒の賜物)を最大限に伸ばすこと、さらに学力の伸長を図る基本は「授業(講習や課題を含めて)の更なる充実」にあること、また生活面での指導においては愛情と同時に「ダメなものはダメである」と指導できる厳しさ、さらに生活面での指導については全ての教員が当たらなければならないこと等を述べました。また授業アンケートでの生徒からの評価を重視していることも述べました。

ということで4月7日の入学式を迎えました。入学式の式辞の要旨は次回に掲載します。

 

 

 

 

 

 

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初めて現象
 

3月10日には中学の卒業式が挙行されました。思い起こせば昨年の中学の卒業式は、大震災の翌日の3月12日でした。当然、その日には予定していた式辞を取り止めて全く違う話をしました。今回の式辞でもやはり東日本大震災の話を避けて通ることはできませんでした。一日も早い生活の復興、そして心の復興を願ってやみません。

さて、今回も中学を卒業する生徒一人一人の名前を私から読み上げて、卒業証書を手渡しました。但し、今回から、中学教頭からのアドヴァイス(注文?!)で、全員「〜殿」ではなく、男子生徒には「〜君」、女子生徒には「〜さん」というように読み上げることになりました。それはそれでいいのですが、大きな体育館の会場の隅々にまで声を通そうと大声で名前を呼び続けるのは決して楽な作業ではありませんでした。卒業式に出席している教員の一人は「校長、最後までもつかなあ〜」という心配もしたそうです。一度だけ無意識にある一人の生徒だけ「〜殿」と読んでしまい、会場の笑いを誘いましたが、今回も卒業式は厳粛な雰囲気の中で行われました。但し、そのあと本校のカフェテリアで行われた卒業生と保護者による謝恩会は「歌あり踊りありの明るく楽しい」(桃山らしい)謝恩会となりました。本当に2期生達も1期生に劣らず元気とやる気が一杯です。また中学の先生方が創ったビデオでは、ある中学生が「お母さん、これからもまだまだ大変な年頃になるけれども宜しくお願いします」というようなことを言ったり、「懇談会ではいろいろ辛い目にあわせてごめんなさい」というようなことを言ったり、本当に素敵な子供たちでした。

今後も、その元気とやる気を勉強においても発揮して、予定通り3年後の大学受験での素晴らしい結果につなげて欲しいと願っています。

 

3月20日の祝日には本校の交換留学制度40周年記念の行事が、外国からのお客様を招いて行われました。米国の校長やコーディネーター、さらに交換留学制度発足に貢献された元教員や多くの元留学生達を招いた楽しい会となりました。今回の40周年で特に気付いた点は、本校若手教員の気配りの見事さでした。外国からのお客さんを迎えてもてなす大変さは私自身経験していることですが、今回そういったことが複数の教員のチームプレーによって、「レセプション会場でのティーセレモニー(お点前)やスライド撮影、さらにはお土産の選定に至るまで実によくなされていました。

 その時、東京で大手広告代理店の経営陣の一人として活躍している一人の卒業生から結婚式に招待されました。といっても、本人の結婚式ではなく息子さんの結婚式でした。私も職業柄多くの結婚式に招待されてきましたが、卒業生の息子さん(本人は卒業生ではありません)の結婚式に招待されたのは「初めて」で、誠に嬉しい限りでした。

 そういった「初めて現象」として思い出すのは、同窓会を同窓生達の保護者同伴で行ったこともあり、これも非常に嬉しく楽しいものでした。懇談会でいうと、兄弟同伴(これは結構あるようです)や祖父母同伴などの「初めて現象」もありました。そういったことについてはまたの機会に・・・。

 

 

 

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マイクを離さない
 

 諸般の事情があり、ブログの更新が延び延びになってしまいました。2月は様々なことがありながらも、一回しかブログの更新をすることができませんでした。そこで前回のブログ「教育いろは唄」から今日に至るまで書き損ねてきたことをある程度、ツイッター風にまとめて書きたいと思います。

そこで先ず「ツイッター風に」ということですが、ツイッターについてはよくいろんな人から書くように勧められたりもしますが、ある人のアドバイスに説得力があったので、ツイッターには踏み切れないでいます。そのある人とは、今入院加療している本校卒業生の「やしきたかじん」さんです。一日も早い病気平癒と現場復帰を祈っています。

 次に、前回のブログ「教育いろは唄」は予想以上の反響を「学外から」いただきました。やはり本校の教職員をはるかに超える人達(他校の教員を含めて)が私の拙いブログを読んでおられることを痛感しました(笑)。

 次に1月30日に昨年に引き続き読売放送のニュース・テンで本校での取り組みが紹介されました。昨年のニュース・テンでの放送やMBSでのラジオ放送と同様に、今回も本校が番組で取り上げられることについては広報をしませんでした。そして今回も後で多くの人達から「お叱り」を受けました。それについて述べさせてもらうと、その日の午前中に撮られた内容が、急遽その日の午後に放映されたからであり、広報する時間が全くなかったからであります(言い訳です・・・)。

 放映された内容は、本校が実施している「授業アンケート」についてでした。本校は中学高校ともに教員の実名入りの「授業アンケート」を全生徒対象に実施しており、その授業アンケート結果を冊子にして教員全員が閲覧できるようにしています。その結果、自分の指導力だけでなく他の教員の指導力も一目瞭然となり、それを契機として各教員の自覚を深め、各教員の指導力の更なる向上を図ることになっています。学校としてもマイナス評価の目に付く教員には管理職がその原因や理由を質し、教科指導力向上を目的とした講習への参加等を促しています(「命令されている」と感じている教員もいるようですが・・・)。その質問項目には「授業に対する熱意を感じるか?」などの項目も入っており、かなり具体的な指導力を問うもので、その点が、現在導入が予定されている公立学校教員の人事評価との対比で放映されたのではないかと思います。ただ生徒を対象とした教員の授業評価で留意しなければならない点は、要するに「生徒にオモネルための簡単なレベルの授業や安易な成績評価」に流れるようなことがあってはいけないということです。よく多くの大学では「あの先生は出席しているだけで単位をくれるので人気がある」という話を聞いたりしますが、そういう要素が生徒の採点する教員評価に入らないように注意が必要です。そのため本校の授業アンケートでは、上記に述べた生徒が感じる「教員の熱意」や「授業中に寝ている生徒を起こすか」などを含めた授業運営力を問う内容も質問項目に入れています。

 次に2月18日に高校の卒業式が実施されました。今年も素晴らしい卒業式となりました。一人の女子生徒などは、私が卒業証書を壇上で手渡すとき、握手をしながら「桃山に来れて本当によかったです!」と一言、私に言ってくれました。おそらく後方に列席しておられた保護者の方々には遠すぎて壇上での私の表情まで読み取れなかったでしょうし、ましてや名前を呼ばれて立ち上がる一人一人の卒業生達や私から卒業証書を受け取るクラス代表の表情は見えなかったわけですが、本当に壇上にも生徒席にも感動が溢れていました。

その後、私からの式辞ということになりましたが、私は「幸せな人生と意義ある人生の違い」を中心に話をしました。

 主旨は「幸せな人生」と「意義ある人生」は必ずしも一致しない。当然、すべての人達には「幸せな人生」を送ってもらいたいと願うが、それ以上に「意義ある人生」を送ってもらいたいということ。そして「意義ある人生」を送る上で、必要な要素についての考えを述べさせてもらいました。ただ、「意義ある人生を送るための要素」については、卒業式では時間の関係で十分に述べられなかったこともあるので(それでなくても校長は話し出すと止まらないと教員からは指摘されていますので)、いつかブログでその点についての考えを述べさせてもらいます。

 また卒業した保護者の方々が開催された「謝恩会」も実に印象的なものでした。ただ今回も卒業生を送り出した各担任がマイクを手にして壇上で述べるクラス自慢には私も教頭も閉口しました。まあ自分が担任をしたクラスが「どこよりも一番だ」と思えることはいいことなのですが・・・。

  そのあと3月10日に行われた中学生の卒業生については次回のブログで述べさせてもらいます。

カテゴリ:- | 14:04 | - | - | -
教育いろは唄
 

先月、ある新聞に元仙台高検検事長(現在は弁護士)が37年間の検事人生で体得した捜査の方法論や心得を「捜査いろは唄」という形で出版したという記事が載っていました。そのことに触発され、私も私なりの「教育いろは唄」なるものを創ってみました。そしてその「いろは唄」なるものを敬愛する方にお見せしたところ、「公表すべし」ということで背中を押されました。

ということで、少しでも教育現場にいる若手教員達の参考になればとの思いで下記に掲載させてもらいます。
 嬉しいことでありますが、結構多くの他校の先生方も私の拙いブログを読んでくれています。その数は確実に本校の教員より多いかと思います(笑)。
各首について、今後機会があれば、順を追ってコメントも付けていくつもりでいます。

 

<い>

いのちこそ いのち育む いのちなり 教師自ら いきいき生きよ 

<ろ>

論だけで 何も変わらず 情ありて 初めて開く 生徒の心

<は>

背景を 知りて叱るが 肝要で 知らずに怒る 怖さを思え

<に>

人間を 人間たらしむ 教育を 為さずに為すな 学校教育

<ほ>

掘り起こせ 生徒に眠る 可能性 苦労してこそ 実る教育

<へ>

変化した 生徒の様子 身落とすな 早期に発見 早期に対応

<と>

友達が いない生徒 いるならば 先ずはその子の 友となるべし

<ち>

血の通う 教育こそが 大事なり パソコンだけで できぬことなり

<り>

理想だけ 語るはやすき ことなれど 地に足つけよ 教師自ら

<ぬ>

ぬかるみに 足を取られて もがきいる 生徒の苦しみ 先ず受け止めよ

<る>

類型化 するのは避けよ レッテルを 剥がして見れば 純なる命

<を>

面白さ なき箇所ならば おもしろく 教える工夫 日々に精進 

<わ>

笑いある 明るい教室 目指すなら 教師自ら 明るく生きよ

<か>

通い合う 心と心 あるならば 後の指導は 楽になるなり

<よ>

良きとこを 見つけ伸ばすが 使命でも 悪しき所を 正すも使命

<た>

足らざるを 知りて努力を 怠るな 生徒と共に 成長続けよ

<れ>

連携を 密にするべし 家庭とは 学校だけで できぬことあり 

<そ>

そっとして おくがいいこと あるけれど そっとし続け 疎遠になるな

<つ>

罪づくり 教師と医者が 筆頭ぞ いのち預る 重み知らずば

<ね>

寝たくとも 生徒ひとりが 気になって 眠れぬ夜あり 教師であれば

<な>

慣れるのは 大事なことで あるけれど 狎れて教育 惰性にするな

<ら>

乱暴な 言動あれば 注意せよ 見逃す教師に 使命感じず

<む>

無理するな ばかりで生徒 育たない 時には無理も 大いにさせよ

<う>

嘘をつく 子供もいると 見抜くべし 見抜いた上で うわての指導

<い>

行く道は 生徒それぞれ 違えども 彼らを見送る 願い変わらず

<の>

伸びる子も 伸び悩む子も みなすべて わが子と思い はぐくみ育てよ

<お>

押し黙る 生徒を前に 何とする 僕も分からぬ その場でなけりゃ

<く>

苦労して 育てた生徒 去りてなお 音信途絶えず 幾年たてぞ

<や>

やる気ない 教師であるなら 辞めるべし 生徒が気のどく 自身も哀れ

<ま>

真面目でも 真面目だけでは つとまらぬ 多彩な生徒 多様な保護者

<け>

けなし合う 教師が多く いるならば 殺伐の気が 学校覆う

<ふ>

不可能と 思う子供を 励まして 達成の歓び 共に手にせん

<こ>

これだけは 許しはしない いじめには そういう覚悟 生徒に示せ

<え>

えこひいき 生徒は必ず 気づくもの 物言わぬ子の 寂しさ知るべし

<て>

手を尽くせ 言葉も尽くせ 意を尽くせ それでダメなら ひとまず待てよ

<あ>

あしたこそ あしたこそはと 願いつつ 待ちたる思い いつかは通ず

<さ>

咲く花は 咲くときまでは 咲かねども 咲く日に備え 世話怠るな

<き>

聞く耳は 物言う口に 勝りけり 聴くこと学べ 先ず何よりも

<ゆ>

ゆっくりと するのも大事 ときとして 焦る指導に 無理が出てくる

<め>

目立つ子に 心ばかりを 向けるなよ 目立たぬ子らに 光見つけよ

<み>

「みんなそう」 子らがよく言う 言葉なり その未熟さを 知りて対せよ

<し>

知りたりと 云えども生徒の 一部なり 知らざるところ あると知るべし

<え>

遠慮すな 助け求めよ 同僚に 心ひとつで 生徒の指導

<ひ>

卑下するな 偉ぶることも あるなかれ 汝が持てる 賜物生かせ

<も>

もろもろの 問題あれど 逃げるなよ 誠一筋 向かうほかなし

<せ>

背中にて 語れるほどの 人となれ 見えざる光 生徒を変える

<す>

健やかに 育てと願う その思い 親であっても 教師であっても

 

 

 

カテゴリ:- | 10:24 | - | - | -
お団子賞新設
 昨日、本校の中学生弁論大会が大講堂(トリニティホール)で行われました。今回も各クラスの代表18名から熱のこもったスピーチがなされました(http://www.momoyamagakuin-h.ed.jp/momoyamagakuin-jh/news_topics/004596.html参照)。

 昨年度の弁論大会でも、多くの素晴らしいスピーチがなされたこともあり、今回は最優秀賞、優秀賞、敢闘賞に加えて、校長賞、教頭賞、そしてさらに「お団子賞」が急遽付け加えられました。お団子賞というのは、近くにあるお団子屋さんのお団子が賞品として贈られるものです。(今回、そのお団子を私が買いに行きましたら、オーナーの方がおられました。そして昨年末に私がMBSのラジオ番組に招かれた時、その団子について語ったことを非常に喜んでおられ、オマケをしてもらいました、余計な話ですが・・・)。

 さて他の優秀な賞に交じって、そのお団子賞を取ったのは中学1年生のスピーチで、タイトルは「本当の意味でのガンバレを言うために」というものです。その主旨は「私達は東日本大震災で被災した方々に『ガンバレ』と言いながら、瓦礫さえ受け入れようとしない」というもので、そこには放射性物資の数値など客観的なデーターも使われていました。また「大文字」焼きに使うと被災地から集めた薪、被災者が亡くなった家族への思いなどを書きこんだ薪を、放射能汚染につながるという風評だけで取り止めにした話などを紹介し、私達の風評に対する脆弱さ、さらには自分だけが安全で無難な所に身を置いて「ガンバレ」という欺瞞を鋭く指摘するスピーチでした。

その他、賞こそ取り損ねたけれど、「いのちの電話」というテーマで自殺の問題を扱った3年生のスピーチなど、甲乙つけがたい内容のものが多くありました。私自身が関西いのちの電話での相談員を10年間続けてきたことから、そのスピーチを聞きながら、改めて「いのちの問題」を深く考えさせられました。また「いのちの問題」という点に関しては、2年生のスピーチに「死ぬってことは」と死そのものをテーマにしたものがありました。これは偶然にも今月の中旬に中学1年生対象に行った私の「死についての話」のテーマにも繋がるものでした。この話でも私は「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」(2008年8月29日の当ブログ参照)の話を引用したり、自殺することの不幸を述べたり、今を充実させて生きることの大切さを中学1年生の生徒達に訴えました。今回はひとつひとつのスピーチに対するコメントを壇上で述べさせてもらいました。

 来年度の弁論大会を楽しみにしています。それと同時に、ここまで「生徒の発表力」を育ててこられた中学校の先生方にも改めて敬意を表します。



カテゴリ:- | 15:35 | - | - | -
働く意味とは
   今回は「働く意味」について様々な考えを紹介させてもらい、私なりのコメントを記させてもらいます。と言うのも、先週(1月16日)行いました高校3年生対象の卒業記念礼拝において、時間の関係もあり、またその日は卒業記念礼拝のあとセンターの自己採点のスケデュールが入っていたこともあり、主にセンターテストを受験した生徒達や私学の受験を控えた生徒達を対象にした話に終始してしまいました。少数ではありますが本校を出て公務員などの職業に就いて働き始める生徒へのメッセージを述べずに終わってしまいました。そこでそういった生徒達を念頭においてこのブログを書くことにしました(卒業式では、そういった「働く意義」についても述べる予定です)。またこの春卒業して働き始める他校の生徒達や大学生も参考にしていただければ幸いです。

本題に入ります。

「人はパンのみによって生きるにあらず」と云う有名な言葉が聖書にあります。当然、人はパンなしで生きていくことはできません。そしてそのパンをどう獲得し、どう分配するかという問題、それはそれで極めて重要なことであり、大きく云えば経済学等で扱う一大テーマともなるでしょう。そして、そういった観点から「働く意味」は「パン代を稼ぐことだ」と云うことができるかもしれません。しかし、それはあくまでも働く必要性であって、働く意味とはなりにくいかもしれません。

ここで、私は「働く意味」について11項目を述べさせてもらいます。下記の11項目については全て網羅されていると確信します。何故なら、「その他」の項目があるからです(笑)。参考にして下さい。そして読者それぞれの「働く意味」を見出して下さい。

 

(1)働く意味なぞ言われなくても、給与をもらっている限り働くのは当たり前である。(「その通り!」でもあります・・・)

 

(2)働く意味なぞ言われなくても、働くのが大好きだから一生懸命働く。(あなたは幸せです・・・)

 

(3)会社には、いろんな面で、お世話になっている(なることになる)。欠点の多い私でも雇用してくれた(?!)。給料も頂いている。せめて、一生懸命働くことによって会社や雇用主に恩返しをしなければならない。(あなたは信頼できる人です!)

 

(4)すべての仕事は世界と未来につながっている。たとえ組織内のことであっても、自分のしていることが、人々の幸せや社会(あるいは日本、あるいは世界)を良くすることにつながる。そういう意味で日々一生懸命働くことに意義を感じる。(立派です!)

 

(5)次世代にいいものを少しでもいい形にして残すのが今生きている者の使命である。(ある時、酔っ払った「やしきたかじんさん」が言っていました・・・)

 

(6)出世するために、しっかりと働く。(悪くはないでしょう・・・)

 

(7)チーム内の上司や仲間から評価を得るために、しっかりと働く。(それだけ?)

 

(8)家族のため、あるいは自分の将来の安定のために一生懸命に働く。(大事な事です!)


(9)死ぬ時に後悔したくないから、一生懸命に働く。(素敵な動機です!)


(10)神様から見られて恥ずかしくないように働く。(素晴らしい〜!)

(11)その他

 

ずいぶん無謀でシュールな表現もありますが、上記はあくまで「働く意味」についての個々の考え方を典型化し、アトランダムに網羅したものです。カッコ内はちょっとした私の個人的な感想で、それで十分かもしれませんが、(6)〜(11)の6つについては蛇足させてもらいます。


<上記(6)「出世するためにしっかりと働く」について>

「出世するために働く」という表現には安易で世俗的なマイナス・イメージがあります。しかし、それとは別に「出世するために能力を磨き、シッカリと働き、実績を上げるんだ」という人がいるのも、組織を活性化させる重要な要素になります。また個人的な成長を促す原動力としてプラスともなります。組織においては、縁の下の力持ちは非常に大切ですが、縁の下の力持ちばかりでは、発展力とはなりません。

 

<上記(7)「チーム内の上司や仲間から評価を得るためにしっかりと働く」について>

 職場の人間関係は程度の違いこそあれ、どこの職場でも難しいものです。教育現場も例外ではないかもしれません。私がよく若手の先生方に言っていることですが、私達教育に携わる者が目を向けるところは生徒なのです。職場の人間関係はどうでもいいとは言いませんし、良好な人間関係は仕事をスムーズに運ぶ上でも欠かせないものだとは十分理解しています。しかし肝心の自分が拠って立つ原点(教員なら生徒や学生)を忘れて、職場内の小さな人間関係ばかりに関心や注意を向けているようでは本末転倒であります。教員であれば、生徒や学生のためと信じることであるなら、自分の言動が全教職員から反発されても悔いがないという覚悟が必要な場合もありますし、職員の方であれば、組織の改善に必要と判断したときには、同僚や上司から「冷たい目」で見られても、突き進む覚悟がいる場合もあるはずです。いわゆる「仲良しゴッコ」や「事なかれ主義」ばっかりが蔓延る組織は遅かれ早かれ世間(社会)から取り残されるでしょう。

 

<上記(8)「家族のため、あるいは自分の将来の安定のために、組織を消滅させないよう一生懸命に働く」について>

 「働く意味」としては非常に消極的な理由だと思いますが、私は、その理由だけで一生懸命働く意味になると思います。

 

<上記(9)「死ぬ時に後悔したくないから、一生懸命に働く」及び(10)「神様から見られて恥ずかしくないように働く」について>

 

(9)と(10)は非常に似通っているかと思います。「生きる意味」を基盤にして考えた上で、こういう「働くことの意味づけ」があってもいいかと思います。「ものごとを為して犯す罪もあれば、ものごとを為さない罪もある」という落書きが何年か前の旧高校棟のトイレの落書きにありました(落書きはいけませんぞ!)。別にトイレの落書きに影響を受けた訳ではありませんが、教育について云えば、せっかく教員をしながら生徒・学生の可能性を伸ばしてやらないのは、罪とは言わないまでも、教員の使命感や責任感の欠如であると考えています。まして生徒にやる気を失くさせるとか、就職活動に取り組んでいる学生を就職させられない、ということに痛みを感じない教職員がいれば(わが桃山にはいないと確信していますが)、そのことについて猛省をすべきでしょう。

 

(11)「その他」の中には、「先人達が血の滲むような苦労をして創立し発展させてきた組織を消滅させないために一生懸命に働く」ということなども入るでしょう。

また自己成長とか達成感とかいうのも入るかと思います。但し、自己成長や達成感といったことは、あくまでも仕事をした結果であるかもしれません。仕事を通じて成長していくことや、自分やチームが企画し懸命に努力したことが成功すれば、感動や達成感をもたらすことも確かなことです。また組織内の何らかの問題を発見し、その発見から得た課題をどう解きほぐすかの手段を考察・実行することで自己評価を高めたり、自己実現をしたりできるかと思います(この箇所については何かの著書に書かれていました)。

どうか「その他」には皆さん自身が自分の考えを当てはめて下さい。

 

願わくば、人生の3分の1ほどを費やす仕事が、生き甲斐のひとつとなることを願ってやみません。

ところで、ここでひとつの問題が出てきます。もし自分の就いた職業が「不本意なものであるなら」という問題です。これについては一概に述べることができません。簡単に言うなら、「どうせやる仕事ならイヤイヤやっても3年間、勇んでやっても3年間、とにかく3年間は最大限に前向きな努力を続けなさい!」とか、「今している仕事を好きになるように頑張れ!」とか「仕事をやり続けていれば面白くなる!」いう勇ましい言葉が出てきますし、実際にそういうケースも多いと思いますが、それでも「一概に言えない」難しさがあります。仕事は大切ですが、人格破壊につながっていいほど大切ではありません。仕事をする以上、ある程度の無理は必要ですが、無理のし過ぎはいけないと思います。そうかと云って、安易に転職を繰り返したりするのも問題であります。最低限云えることは、何があっても周りから信頼される生き方や困難な中でも正しく判断し努力できる底力を学生時代に身につけておく、あるいは仕事をしながら身につけていく必要があるでしょう。

例え、第1、第2志望の仕事に就けなくても、第3志望の仕事の中で、しっかり働き、その中で自らの能力を磨けば、やがて自分が汗を流した苦労や努力が開花し、結果的に第3志望が最高の選択だったということにもなるのです。そのためには、私がいつも言う「目に見える実力」と「目に見えない実力」のふたつが必要だと思います。最近知った言葉で「(人生を決める)最後は人柄だ」というのがあります(この点についてはまた後日述べさせてもらいます)。

「強くなければ生きられない。優しくなければ生きている値打ちはない」・・・昨年度の卒業式の式辞で引用した言葉です。

 

 

 

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生活指導部長からの呼びかけ
 

 先日の朝、中学と高校内で教職員が連絡用に使っている校内共有メールに、次のような全教員に対する呼びかけが生活指導部長よりありました。

 

<呼びかけ>

1月16日(月)の朝、・・電車、・・駅7時15分着の急行に乗っていた小学校6年生のお母さんから本校にお礼の電話がありました。
 
16(月)当日、中学校入試の為、受験会場に向かう途中で、小学校6年生の息子さんが車内で気分が悪くなってしまい、桃山学院の女子生徒(おそらく高校生)のスカートを汚してしまったそうです。週の初めに、服を汚してしまい、本当に申し訳ないのと、迷惑をかけてしまったにも関わらず、息子のことを気遣ってもらう言葉もかけて頂き、本当に感謝しています、とお礼の言葉を電話口でおっしゃっていました。
 改めて御礼の気持ちを伝えたいのでその生徒さんを探してもらえないか、とのことでした。
 18(水)の朝終礼で、少しこの話を伝えていただき、該当する生徒がいましたら、担任に申し出るようにさせてください。教室では言いにくいという生徒であるかもしれないので、後にでも担任(副担)に伝えるようにうまく話をしてあげてください。申し出て来ましたら、私の方までご連絡をお願いします。
 申し出て来ないこともあるかと思いますので、そのような場合は、次の特徴で個人的に先生方から尋ねてみてください。

[その生徒の特長]
 髪は肩につくか、つかない程度で、身長は160cm前後。
 リュックサックは白地に柄がついていた感じ。
 ・・電車利用でおそらく・・駅で・・駅寄りの車両に乗って来た様子。

 

以上のような内容での「生徒探し」の校内メールでした。本当に健全で心やさしい生徒達がたくさんいることを嬉しく思っています。また、そういう事に対する生活指導部長の対応にも温かいものを感じました(後でその生徒が判明し、校長室にも来てもらいました)。

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平穏無事であること
 昨年は、東日本大震災をはじめ、さまざまな出来事ことがありました。今年こそ、平穏無事な明るい年となることを祈ってやみません。
 今回は、昨年末の終業式と今年の始業式で全生徒に対して述べた年末・年頭の私からの挨拶を掲載させてもらいました。
"The Bible in one hand, the newspaper in the other"
「片手に聖書、片手に新聞」という言葉がありますが、学校教育においても教育理念(本校ではキリスト教精神)に基づく教育と共に、今まさに進行している時代の事象に対する視点や対応案を生徒たちに提供していくことも肝要であると考えています。

<2学期終業式での学校長挨拶>2011年12月24日

早いもので、もう1年が過ぎ去ろうとしています。今年は本当にいろいろありましたが、中でも東日本大震災は私達の安全に対する思い込みを大きく変えるものでした。そしてその大震災の影響は今後も日本の国、特に我が国のエネルギー政策に影響を与えていく事は確実であります。

そういった中で私は原子力発電所の問題について、いくつかの新聞や雑誌などにも目を通してきました。そこで面白いことに気付きました。新聞や雑誌によって記事の内容や方向性がかなり違うということです。さらに同じ内容について書かれていても、その書かれ方が違うということです。例えば、ある新聞は「原子力発電を廃止する方向」つまり脱原発が正しい今後の在り方であるというように書いているかと思えば、反対にまだ日本に必要な電力を賄えるだけの代替エネルギーがないのに、安易に脱原発をすることは日本の経済力を衰退させ、取り返しがつかないほど、国力を弱体化する結果にしかならないと書かれています。また雑誌によっては放射能汚染によって予想される被害を、パニックを煽るほど深刻に書いているのもあれば、反対にそういった被害は科学的な根拠がないものであるという専門家の意見を紹介している記事もあります。

そういった正反対の記事を読みながら、本当に真実を知ることの難しさと真実をきっちり知るための訓練や知性が必要であると実感しました。また自分の意見はどうであるか、自分の考えはどうであるかということを、冷静に客観的な情報をもとに形作っていく必要があることを痛感しました。諸君にも是非、ひとつの出来事に対して、一部のマスコミが報道したところだけを読んで、それだけを真実として鵜呑みにするのではなく、その背後に何があり、真実がどこにあるかを見抜く力を持ってもらいたいと願っています。

 

さて新聞という話のついでに、少し古くはなりますが、大震災のあとに読んだ新聞に感動的な記事が出ていました。それはポーランドという国についてです。実は今回、東日本大震災に関しては、米国だけでなく、台湾やトルコやポーランドという国が、いち早く援助の手を差し伸べてくれました。

そして私自身、トルコや台湾がどうしてこれほどまでに、日本に温かい援助の手を差し伸べてくれるのかは、その背景も理解していました。その二つの国の多大な援助の背景にある話については、今後の機会に話させてもらいます。しかしポーランドという、日本から遠く離れたヨーロッパの小さな国が、阪神大震災の時と同様に、今回も、日本の国にどうしてこれほど温かい援助の手を差し伸べてくれたのかを初めて知りました。

それは今から100年以上前にさかのぼる出来事に由来するものでした。第一次世界大戦後、ロシアによって多くのポーランド人たちはシベリアの原野に送られ、難民となり飢えと寒さに苦しみました。そしてそういった過酷な環境の中で親を亡くす孤児たちを、日本の国が、ポーランド人からの要請を受け入れて、孤児の救出に乗り出しました。その結果、平均年齢5歳、765名に及ぶ孤児を大阪と東京に迎え、飢えや凍傷で傷ついた彼らの治療に当たりました。中には凍傷の上に腸チフスを発症していて、もはや手遅れを思われる幼い女の子の孤児がいました。ところが、松沢フミさんという若い看護婦さん(敢えて看護師ではなく「看護婦さん」という言葉を使用しました)のひとりは、それがかわいそうでならず、どうせならせめて自分の胸で死なせてあげたいと願い、毎晩、その幼い女の子の横で眠りました。その結果、その幼い子は奇跡的に命を取り留めましたが、その様子を見届けてから松沢看護婦さんは倒れてしまいました。自ら腸チフスに感染していたのでした。結局、当時、孤児の世話に当たった人達は、日本に迎えた孤児を一人として死なせはしませんでした。死んだのは松沢フミさんという看護婦さん一人だけでした。私はこの記事を読んで、なぜ惜しみない援助がポーランドから送られたのか、その背景を知ることができました。ポーランドの人達は100年以上前に日本の人達がしたことを忘れていませんでした。私達も、100年以上の前の話ですが、日本の国や日本の人達がポーランドの孤児達に対して取った尊い行為を忘れてはならないと思います。

さっきも申しましたように、あらゆる出来事にはその背景があり、隠された真実もあるということをもう一度理解していただき、今日本で起きていること、そして世界で起きていることに関心を持ってもらいたいと願っています。今日は時間の関係もありますので、物の見方やものの感じ方の違いがどのように生じるかについては別の機会に述べさせてもらいます。

最後に、いよいよ受験に向けての追い込みに入った高3生諸君のさらなる健闘と成功を祈願し、また生徒全員が新年を明るく元気に迎えられることを心から祈って、私からの終業式の挨拶とさせてもらいます。

<3学期始業式での学校長挨拶>2012年1月7日

みなさん、おはようございます。冬休みはどうでしたか?またお正月はどうでしたか?昨年は日本にとって本当に大変な年でしたが、今年こそ、平穏無事な年であることを祈ってやみません。何か大きな不幸や悲惨な出来事があって、私達は初めて「平穏無事」であることのありがたさが実感できるのかもしれません。

本当に今年はどんな年になるのでしょうか?

私の心配していることはいくつかあります。そのうちの1つは、何と言っても、再度、突然に大きな被害をもたらす巨大地震や大津波の発生であります。既に日本は地震の活動期に入ったと言われています。専門家の何人かは東海地震、東南海地震、南海地震が連動して起こる可能性を述べたりもしています。またもう一つ心配なことは、ヨーロッパに端を発するかもしれない世界大恐慌の発生です。これも今のところ何とか発生を抑える努力がなされているのですが、一度世界大恐慌が起こると、日本でも多くの倒産が起こり、失業者が世にあふれ、将来を悲観して自殺する人達も激増します。大きな銀行や世界的な大企業でも倒産するのが世界大恐慌というものです。また第2次世界大戦の時と同様に、大恐慌のあとに大きな戦争が起こることも予測されます。もう一つは鳥インフルエンザがヒト型インフルエンザに変異して起こるパンデミックです。鳥インフルエンザが猛毒性に変異し、人から人への感染が広がったりする危険性については世界保健機関(WHO)も警告を発しているところで、これも一度発生すれば、世界で最大5億人が犠牲になると言われています。あとは今後の北朝鮮の核開発問題や中国との領土問題などなど・・・本当に今年も大変な年になるのではないかと心配しています。

皆さんはどうですか?余り、そういうことに関心もないし、自分には関係がないと思っているかもしれませんが、実際は、私達の誰一人として、世界や日本で起こることから、自分だけ無関係であることは不可能なことです。

 さて、校長は、新年早々、今述べたような悲観的なことを何で述べるのかと思われる生徒もいるかもしれませんが、それは何も諸君の気持ちを暗くすることが目的ではありません。ましてそういうことが起きるのを待っている訳ではありません。私は、毎日、どれだけ遅く帰った時も、日本の国が安かれと願い、世界が平和であれと願い、日本の人達、そして桃山の生徒達が無事であれと願い、神に祈っております。

しかし、私や皆さんの願いや祈りだけでは、避けがたい運命というのもあるのです。

では、なぜこのようなことを述べたかといいますと、理由は2つあります。ひとつは、「実際に起こったときにアタフタしないためにも」生きている限り何が起こるか分からないということを心の片隅にでも、しっかりと刻んでおいてほしいということであります。あくまでも心の片隅です。それを心の中心に据える必要はありません。心の中心には、今、自分が生きていることの感謝とともに、その中で今自分がなすべきこと、毎日の生活のなかで果たすべき役割と使命というものをしっかりと据えておいて下さい。そして学校生活の中でも、しっかりと自分を高めていってください。聖書の中に「光あるうちに光の中を歩め」という言葉があります。自分の周りが闇に覆われても、自分がその闇の中の灯(ともしび)となれるように自分を高めていってください。

いつ闇がやってくるかもしれません。

また勉学や読書を通じて知識や教養を高めて下さい。そうすれば、様々なモノの見方や、広い視野に立った世界観が身に着きます。それと同時に、人類の歴史をふりかえって、何もない時代自体が珍しかったことも分かるはずです。特に日本では何もない平和な時代がここ数十年だけ続いているので、私達はそれが当たり前であると勘違いしているけれど、実はそうではないということを十分に承知しておいて下さい。実際、ほんの70年ほど前には、諸君のような多くの若者を含め、300万人ほどの日本の人達が戦争で亡くなっているのです。世界にとっても、日本にとっても、またひとりひとりにとっても、生きてある限り「何かが起こる」ものです。もちろん避けられる不幸や大きな問題は、それを回避し、その損失を最小限に抑える最大限の努力というものは必要ですが、それでもそういった人間の努力を超えるようなことが起こるのが「この世に生きてある」ということです。

 そこでもうひとつ私が述べたいことは、「人生、逃げ場なし」という覚悟の必要性であります。今申しましたように、逃げられない運命というものが人間にはあります。そういうとき、何があっても、動じない覚悟というものを持ってもらいたいと思います。このことは、大地震や大恐慌のような大きな問題に直面した時もそうですが、日常生活で起こる個人個人の問題に対しても、そうであります。問題から逃げようとすればするほど、その問題は大きくのしかかってきます。どうせ避けられない運命や問題ならば、その運命や問題から逃げずに、それに立ち向かうという覚悟が必要です。まさにいかなる場合にも、「人生逃げ場なし」という覚悟をして、前向きに明るく生きていくことが大切であろうと思います。

実際、運命や問題から逃げようとするのではなく、それに力を振り絞って立向かった時、人間には思いもよらない大きな力が与えられたりすることもあるのです。また一つの扉が閉じられても、別の扉が開かれることもあるのです。

 ということで、今年も、私達に何があるかも知れませんが、何があっても逃げないで、力を振り絞って、すべての困難に立ち向かってもらいたいと願っています。そして最後にもうひとつ、一人では超えられない困難でも、みんながひとつになって心を合わせ、力を合わせれば、何とか超えられることもあるのです。

どうか家族や友人や自分が出会った人達を大切にして下さい。そして悔いのない毎日を送って下さい。

これで私からの始業式の、そして年頭の挨拶とさせてもらいます。

 

 

 


 

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